宮本 武蔵(みやもと むさし, Miyamoto Musashi)『宮本 武蔵』(みやもと むさし, Miyamoto Musashi、1584年? - 1645年)
剣術家、兵法家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。また、水墨画や工芸品を残している。*
二天一流名字は宮本、または新免
通称は武蔵
本姓は藤原
諱は玄信(はるのぶ)
幼名は辨助(べんのすけ)
号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では新免武蔵守 藤原玄信を名乗っている。
-------------- 格言 --------------------
我、神仏を尊びて、神仏を頼らず。
千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす。
構えあって構えなし。
初めの少しのゆがみが、あとには大きくゆがむものである。
体の大きい者も小さい者も、心をまっすぐにして、自分自身の条件にとらわれないようにすることが大切である。
役に立たぬ事を、せざる事。
恋慕の思いに、寄る心なし。
心、常に、道を離れず。
身を浅く思ひ、世を深く思ふ。
一理に達すれば万法に通ず。
何れの道にも、別れを悲しまず。
人のまねをせずに、その身に応じ、武器は自分の使いやすいものでなければならぬ。
平常の身体のこなし方を戦いのときの身のこなし方とし、戦いのときの身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること。
世々の道を背くことなし。
道においては死をいとわず思う。
多数の人間と戦う時は、こちらが待っていてはいけない。敵が四方から攻めかかってきても、むしろ、こちらから、一方へ追い回す心で向かっていくべきである。待っていてはいけない。こちらから強く切り込み、敵の集団を追いくずし、切りくずしていくのである。
武士といえば、常に死ができている者と自惚れているようだが、そんなものは出家、女、百姓とて同様だ。武士が他と異なるのは、兵法の心得があるという一点においてだけだ。
武士は己を知る者のために死す。
-------------- 年表 --------------------
13歳 - 播磨国で新当流の有馬喜兵衛に勝つ
16歳 - 但馬国の秋山某
17歳 - 関ヶ原の合戦に参戦
21歳 - 京都蓮台野、一乗寺下り松、三十三間堂で吉岡清十郎、伝七郎、又七郎に勝つ。奈良で槍使いの僧・奥蔵院に勝つ
24歳 - 伊賀の鎖鎌の使い手・宍戸梅軒に勝つ
27歳 - 柳生新陰流大瀬戸隼人、辻風典馬に勝つ
29歳 - 佐々木小次郎に勝つ*
巌流島 31歳 - 大阪冬の陣似参戦、翌年の夏の陣に参戦
39歳 - 東軍流の三宅軍兵衛に勝つ
54歳 - 島原の乱に小笠原忠真の指揮監として出陣
62歳 - 五輪書完成後、病気が重くなり、独行書を書いて永眠*
五輪書*
時代劇*
武蔵 MUSASHI
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